夜中のハイテンションのリアル
17歳の頃、恋をしていたのか何なのか、いや、何なのかではなく恋をしており、身一つでハイテンションだった。あの、思春期のリーズナブルなハイテンションはもう二度と体感できないだろうと思うと、切ない。22年前の私は、自分だと思えないほど純粋に人を好きだった。
そして厳密には、平成中期のあの頃の自分は「身一つ」ではなく、ラジカセが友達だった。あの頃はドリカムの『すき』を20回くらいリフレインしながら布団に横たわり、好きな男のことを思い浮かべる、それだけでもはや宇宙旅行だった。なんだったんだろう。あれは…
今は、酒・スマホ・PC・宅上スピーカーが全員10cm以内に集合してくれないととてもじゃないが深夜に正気を保っていられない。なぜこんなにもあれやこれやが必要になってしまったのだろう。
年齢もあの頃の倍以上になってしまい、もう限界か…ということばかりをあえて自身に納得させることが多くなった。失うとは、「まだ」はだめ、「これから」とは…。本当は、私は、まだあの頃のように、未知のどうしようもなさに涙を流してみたい。でも、そのようなことをまだしていてもいいかどうか…と問いかける。そんなとき、誰かに大声で「やれやれやれ」と言ってほしい……………
このような戯言を「ゆらぎ」と言ったらまだ美しいかもしれないが、ただの老いに対する恐怖でもある。人間は老いに対する恐怖を感じたときに、いたいけな頃の自分を思い出す仕組みになっているのだろうか。あまりよくないぞ、このメカニズム。
さて、私は今の年齢の倍まで正気を保って生きられるだろうか。はてなブログはこのようなあさはかな日記を保存してくれるだろうか。いや、私がこれを書いたことを記憶し続けられるかどうかだ。そのほうが、多分、難しいだろう。
あと数年限りの、このページに向き合った私へ。おやすみ。よく休みなさい。
○○の話
数少ない未婚友達の友人の話だ。なぜか「まいばすけっと」で買い物をしているときに学生時代の彼女を思い出した。フラフラに疲れていたとある日、たまたま魚肉ソーセージに目がとまった。まいばすけっとで魚肉ソーセージに目をとめるなんて不思議だな…と思ってぼやっとレジに足を運んでいたら、ガッと彼女の残像が目に浮かんだ。学生時代、彼女とさほど交流していなかったのだが、なぜか気になっていて、モサっとしているわりに妙な色気があるところが好きだった。色気があると思っているのも私だけだと確信できるほど、もさっと感のほうが強い、鬱々とした表情の中肉中背の女だ。
彼女は10代の頃、漫画みたいに「雷に打たれた」恋をしたという。
体育のマラソンをさぼっているときに、たまたま教室で二人になったときに打ち明けられた。何を…と思ったが、たしかに彼女の目はうるうるだったし、どこか一点を見つめながら「私、好きってこんなにすごい感情だって初めて知った」などと言葉をついでおり、思春期の感情のビッグウェーブに気持ちよくライドしている様子が見られた。
そんな話を打ち明けられた私といえば、テニス部でサーブを打ち込む瞬間とあさイチに吉野家の牛丼(並)をいただくことが幸せなくらい、色気も何もあったものではない女子高生であった。見た目では彼女とほぼ変わらない、もさっと感選手権上位の女子だ。
少しぬげがけをされたような気分でもあり、好奇心から「どんな男なの」と精一杯のイキったコミュニーケーションをとってみたが、裏腹に「しっとりしてるの」などという。
当時の私が知っている「しっとり」はシャンプーの「さらさら」ではないほうか、せいぜいスイーツのスポンジの好みくらいで、男性の種別を表現するものではなかった。なんだコイツ、キモチわる…私のキャパはそこで限界を迎えたのだろう。イライラしている自分の手先やつま先の残像のみしか記憶にない。
さて、そこから20年後だ。
彼女はまだその「しっとり」を追い求めていた。しかも、同じ「しっとり」を。
「どう見られたっていいよ。でも、彼の『しっとり』を感じられたら何でもいいの。もう、なんでもいいんだよね。年金とか、SNSとか、自意識とか」
どんだけしっとりしてるんだ…彼とやらは…と思った私のツッコミをさておくほど、彼女からは「どうでもいい」オーラが際立っていた。「しっとり」へのこだわりというよりかは「しっとり」へこだわることへのどうでもよさが光っている。
これは大変だ、と思った私の尺度はどうだろう。彼女の「どうでもいい」光はどうだろう。
「何でもいい」と「しっとり」を見つけられた彼女は、まぶしかった。整形もせず、タレ眉の筋肉に逆らったダサい眉のアートメイクが唯一の加工か。
「ねえ、その彼とは、結婚とかそういうのあるの」
と聞いた私を見て、彼女は
「答えられないところもまたいいの。ねえ、魚肉ソーセージってどう思う?て聞かれてどう答える? それと同じ感じ」
と言って去った。
2021年1月3日|金継ぎはもうできない
あきらめきれなかった「ていねいな暮らし」
10年ほど前に手作りした器が割れた。割れたときは「ついにきたか」と思った。「こうしてきてほしくないことは突然くるんだな」と妙に冷静に状況を飲み込み、なぜかすぐに割れた器の細かい破片のみを掃除機で吸い、「金継ぎで修復しよう」と残った大半を冷蔵庫の上にそっと置いた。
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器を作ったのは10年ほど前か。当時新婚だった私は寝る間もなかった会社を辞めたばかりで、ぐうたらしていた。ぐうたらの大義名分としては今まで粗雑に扱っていた「暮らし」の再構築である。衣食住を見直すことで感性を呼び覚まし、「水が甘い!」とかなんとか言い出すことが正しい生き方だと盲信していた。嫁に専業主婦になってほしいと目論でいた当時の夫も私には甘く、昼過ぎに起き出して再放送のドラマを堪能したあとようやく夕餉を準備する、というどうしようもない生活をする私に対し「いい行いだ」と満足そうな笑みをうかべていた。都市部に近いエリアに住んでいたにもかかわらず、近代的なスーパーを敬遠し、団地から至近の青果店・精肉店で歯が抜けたおっさんと「今日は何がおすすめ」とかなんとかかうわべの会話をし、「新鮮&安い」風の素材を購入したうえで化学調味料不使用の晩飯を作る。これが何かに対する贖罪になると思っていたのかもしれない。ともかく、それさえやっていれば、なにか「精算される」と感じていたように思う。何に対する精算なのか考える余地もなく、ただ夕方になると何かに掻き立てられたように目を血走らせ、毎日毎日台所に立った。
そんな日々の限界は、突如きた。ソファーにゴロゴロと横たわりながらドラマに飽きてザッピングしたついでに健康番組を見ていると、「骨粗鬆症」のコーナーが目に入る。「骨がスカスカになり、少しの衝撃で折れやすくなります」。あ、これ…。
私のこころ
そう思った。だめだ。そういえば、なぜ小高い丘のようになった団地から眺める夕日を見てただ涙を流しているのか。なぜ枯れた秋風が舞う公園で500mlの発泡酒を飲み干しているのか。なぜ高校生の頃に別れた彼氏にメッセージを送っているのか。
半壊している、いわばびんぼっちゃまスタイルの心で、夫にかろうじて表面の笑顔で言った。「と、陶芸しようかな…」。
夫は少しばかり眉をひそめ「無理しないように」と答えた。陶芸で無理とは何か。なにかの修行でもすると思ったのかか。前人未到の山奥まで土を掘り起こしに行くとでも? あほか。べらんめえ。とまで思ったかはさておき、当時の私は夫の反応などは気にしていられないほど、切羽つまっていた。
当時住んでいた横浜市はとかくに坂や丘が多い。私が赴いた陶芸スポットもバスで20分、三渓園というちょっとした地域の観光地付近で、徒歩だと息切れするような場所にあった。
陶芸スポット=教室ではない。ただ小屋の中にろくろと窯があり、道具を貸し出してくれる。予約制で、指定した曜日に行けば自分の好きなペースで作陶できる。誰とも会話することなく、静かに失敗したり成功したりできるのだ。当時の私にはそれがよかった。陶芸教室は嫌だった。誰かに、自分が何者かを説明し、そのうえでこのふるまい、そしてこんなものを作っています、そんな説明的かつ辻褄合わせのコミュニティはストレスでしかなかった。ただ、作らせてもらえる場所がほしかったのだ。
そもそも、なぜ陶芸なのか。大学時代に陶芸サークルに入っていたからだ。そこはよかった。社会性もなく、アイデンティティもなく、いわゆる「メンヘラキャラ」でも誰も何も言わず、愛想なしでも存在していられた。「認められる」という実感もなくただ「作って帰る」という部室があり、自然と酒を飲み、作ったら下手くそでも自動的に作品展に出展され、無表情でそこにいていい。なぜそんな私が陶芸に手を出したのか、きっかけはもはや確たる記憶がないが「下手と上手いとか競争とかない」ところが神聖で、「無」をアウトプットできる装置であると認識していたので「心が骨粗鬆症やん」と思った私が陶芸にすがったのであろうと今では思う。
そんな私はいわゆる「自意識」を捨て、腰の曲がったおじいちゃんとおばあちゃんの間で毎週無言で作陶した。朝は苦手だが、土曜の朝バスに揺られエプロンをし、顔に泥を飛ばし、ろくろをまわす。ああ、自意識が入っていない状態で回された器は見てて気持ちがよい。すっきりとして丸く、薄い皿や茶碗が出来上がった。化粧土で皿に模様をつけ、焼き上がりを見た瞬間「不器用な私がこれを…」と立ち尽くした。ボランティアの奥様たちが「あなたのこのお皿、とても素敵だからみんな出展したらいいのにと言っていたのよ」と声をかけてくれた。出展か…。ああ、懐かしい。「ありがとうございます、でも持ち帰ります」と言った。密度が上がった感覚がした。その、5ヶ月後くらいかで、陶芸通いを辞めた。編集者として再び仕事を始めたのだ。そして、夫と離婚した。
あれから7年、よくできた器は私を励まし続けた。自意識を忘れた私も捨てたもんじゃない。強がり飾った私に対し、エールを贈ってくれた。一人用の狭い部屋のキッチンでちょっとした漬物を盛る。徹夜明けの休日、自作した煮物をよそう。これで「精算」ではない「生産」を感じた。紆余曲折経てキッチンは一人用ではなく、再び誰かと共存するためのものとなった。ちょっとずつでいい、自作の器と格好つけた美術品の器、どちらも私らしいと思えるように。そんな矢先、手を滑らせ、いちばんよくできた赤土・化粧土の軽い皿を割ってしまったのだ。
・・・・・・・・
金継ぎ、は前から気になっていた。器は好きだが日用品、手元が狂えばいつかは割ってしまう。私はとてもがさつだ。せっかちで、生き急いで、因果をつきつめ誰かのせいにしなければならず、ものを大切にできない。本当は何も壊したくはないのに。でも、金の繊細な細い線で割れたかけたを継ぎとめるその手法に対し、壊しがちな自分に対する救いを見た気がした。自分の過失で壊したものを、以前より美しく、生まれ変わらせることができるなんて。
割れた器を見た瞬間「金継ぎだ」と思った。不注意はがさつとは違う。大切にしていないわけではない。私は、悪くない。よかった。むしろ、正しい暮らしをしている。そんなわけのわからない脳内補正が入ったのか、すっと器を冷蔵庫の上に置いた。そして、スマートフォンの検索窓に「金継ぎ 自宅」と文字を打ち込んだ。
数日してマンションの宅配ボックスに届いたのは小さな箱。明朝体で「金継ぎセット」と書かれている。ああ、これで私は積み上げた日常を雑にぶっ壊したワーカホリックの中年女ではなく、丁寧にモノを愛せる人間になれるんだ。そうして「金継ぎセット」と割れた皿を横目に年末進行を抱え3週間、茫洋と過ごした。なぜキットがすぐ届いて「継ぎ」をしなかったのか。それは…。「今心も体も疲れているし、雑然と行ってはならぬ」という現実逃避(=めんどくさいを正当化)したためだ。まだだ、まだだ…とタイミングを長めにとった年末休暇の8日目。金継ぎに対しどれだけ心も体のエネルギーを要するものだと認識していたのかいないのか、実家から自宅へ帰った本日、ついにキットを開封した。すると、目に入ってきたその文字に、動揺する。
金継ぎには漆を使います。
漆は手につくとかぶれます。
皮膚が弱い方は直接手に触れなくても、かぶれます。
漆?
え? 金継ぎって、割れたところに金塗って、いい感じにするんじゃないの? 何? 漆って…
幼少期、山道で無邪気に遊ぶ私に母は言った。「漆があるからむやみに草はさわっちゃだめ。漆をさわると恐ろしくかぶれるのよ。かぶれるのよ。漆、かぶれる…う…漆…ダメ…!!!!!!!!!」
母の漆NG発言(というか呪い)はトラウマとなり、40を手前とした今でも自然にふれるたびに思い出されることとなった。漆…ていねいな暮らしがしたいのに、漆が手前に立ちはだかる。キットの説明書を読めば読むほど「漆、直接触るとかぶれるってよ」と強調されている。金継ぎの説明書というよりかは、むしろ漆をさわると手がかぶれることの恐怖に対する訴求のほうが強いのではないか…。
キットにはご丁寧に外科医がオペでするようなゴム手袋が同封されており、取り急ぎ手首を垂直に立て「ビチ」っと装着する。メス!! ではなく説明書を手に取り美しい金継ぎで蘇った器を手にするまでにどうすべきか文字を読み取った。
すると…ざっとこのようなことが記載されていた(途中苛立ちで酒をあおったため記憶があいまい)
・漆を炊いた米粒とまぜてヘラや筆にとり、断面に塗るべし
(※心の声:「米粒!? 我が家は目下ロカボ中なので炊いた米とかねえっす」)
・湿度が80%くらいあるところで乾くまで保管すべし
(※心の声:「じっとりしてるところで乾かせってどういうこっちゃ」)
・乾いたらテープで割れたかけらと断面をはっつけ
・はっついたら金でついで…(もう読めなかった)
ああ、もう米とかないし、漆って最強そうだかとりあえず塗ってみよう。いいよ。なんとかなるよ…と手袋をした手で断面に漆を塗るも、「かぶれ」に対する恐怖で落ち着かない。説明書には漆を塗った筆は同封されている特殊な油で洗浄せよ、と書かれているがそれの油をどうすればいいのか書かれてはいない。どうすんねんその油。
というか、そもそも「めちゃくちゃかぶれる漆」を塗った器に金をコーティングしたところで、かぶれ要素満載の器に入れた食べ物を食べたら死ぬのでは…。どこまで洗えばかぶれ要素が消えるのか…というか、漆をこれ以上この部屋に撒き散らしたらかぶれで死ぬのでは…??????????
そして、割れた皿と金継ぎセット、もろとも…
何がなんでもかぶれたくはない
漆=かぶれ、これに対する恐怖によって、ひきこもごもが詰まった器を金で継ぐことはなくなった。
陶芸をすれば手肌は荒れる。土を触れば水分を奪われ、爪も指も乾燥する。顔に泥は散るし、服は汚れる。登り窯の温度が1300度に上がるまで、薪をくべるとなると全身ススで真っ黒になるし、全身2〜3日は焦げ臭い。そんなことを知ってやって経てはいるのに「漆で手がかぶれる」に対しては有無を言わさず拒否反応が出てしまったのだ。
ああ、私はあの時代に丁寧につくった器をもう修復すらできないのか。
手指は適度な水分や油分のある状態に保ちたいし、衣服は清潔でいたい。できれば常に風呂上がりみたいな状態でいたいし、ホコリや土は部屋に存在すべきではない。
この欲求がもはや老化現象なのか?
わからない。私は手がかぶれるリスクまでおかして金継ぎはできない。そして、器と金継ぎセットを無きものとして…
9/11まであと3ヶ月と22時間15分
9/11まであと3ヶ月と22時間15分
2001年9月11日、私が19歳になったと同時にアメリカ同時多発テロ事件が起こった日だ。
2019年11月末、会社を辞めたタイミングでどこかに行けないかと渡航し、ニューヨークのワールドトレードセンターへ足を運んだ。
秋なのに春のような日差しが…という使い古された表現がよく似合う穏やかな日、ニューヨーク・ロウワーマンハッタンにあるワールドトレードセンターは、買い物客なのか、ただのとおりすがりなのか、それとも弔いに来ているのか、行き交う人目的がわからないが、ともかく周囲は静かだった。ニューヨークらしく雑音はあるし、多くの人が行き交っている。でも、人の表情、歩き方、モニュメントを手でなぞる人が視界に入っている空気、全部をここ通る人が察し、静謐さを保っていると感じた。
きっと、何も感じずにこの場を歩く人はおらず、どんなに無神経で能天気な人でも、一瞬の祈りを捧げるのであろう。
その祈りに対し、なぜか涙ぐんだ状態が続いてしまい、そそくさと地下鉄に乗って、そして、涙を拭きながらおぼろな目線でスマートフォンの情報をザッピングし、次にいくべき街を探したことを覚えている。
コロナショックを機に日記を書くことにした
2020年4月4日|なぜ内省的になるのか
物理的な距離と信頼関係
コロナショックがなかなか自分の現実にならないまましばらく過ごしていたが、頻繁に会っている実家の母に感染リスクをもたらす要因について考えたときに「自分がリスクになりうるのか」と思ったことで、ああ、もはや日常は失われているんだなとようやく気づいた。
母は一昨年長年連れ添った夫を病気で失った。感情的になりやすく、いわゆる夫婦喧嘩で癇癪はよく起こしていたが、父が息を引き取った瞬間の「無」になり立ち尽くす様子は、初めて見た母の姿だった。まだ目の裏に焼きついている。ぽっちゃりしているが小柄な母は、カバンを手に持ち、病室でただ、動かない父のベッドを見つめまっすぐ立っていた。
父の生前、母はよく長女である私に、涙がらに父の不満を訴えた。最も古い記憶を辿ると、確か私が5歳のときだったと思う。母が私に抱きついてきたので、母の頭を撫で「私がお母さんを守るから」だのなんだの言って、その場をおさめたような気がする。この瞬間に「私が母を守る役目なのだ」とすりこまれたのであろう。父が亡くなった今では、ずっと「犬も食わない夫婦喧嘩」の緩衝役をつとめていたのだな、としみじみ思い出にふける。
母の持ち前の天然気質が功を奏したのか、浮いたり沈んだりの葛藤を、彼女の世界の中で意外と器用にやっており、1年経った今、祖母の面影を見せるほどに老けはしたが、落ち着いているように思う。しかし、母があの実家に一人で暮らすようになってから、私は常に「役目」を果たさねばならぬ、とそわそわしているのだ。
電話やメールで母の安否を確認しながら、「テレビ電話でもしよう」と話す母はまあまあ気丈にやっているのだと思う。私も私の「そわそわ」でどうしようもなくなってしまわぬよう、母をある程度は信じる訓練をする。「信じる訓練をしなければ」、これがもしかすると、私と母の間でとても必要なことなのかもしれない。
少しだけずれた位置にある日常
今日は天気がよかったし、体を動かしたかったので、近所の公園まで散歩をした。猿江恩賜公園だ。

空は青く、空気は澄んでいて、歩く人たちの表情は(マスクをしていたけど)のびのびとしていた。
気分よく「くるり」を聴きながら桜が舞い散る歩道を歩いていると、なぜかここ20年ほどの出来事が脳裏をかけめぐり、混乱した。
学生時代に江東区でアルバイトをしており、当時付き合っていた彼氏とよく歩き回ったエリアだからなのか、そのころの自分が顔を出し、ノスタルジー大魔王となって私を操る。
ベンチに座り、大音量で音楽を聴きながらビールを飲んだ。
平日の日中に公園でチューハイを飲むおじさんについて、やや偏見の視線を浴びせていた気がするが、今の私は彼らと同じことをしている。ただ座ってビールを飲んでいるだけなのだが、内面は忙しい。過去今未来過去…と内省がすごいのだ。なぜだろう。でも、とても気持ちがいい。公園と内省とビール。最高だ。
おじさんたちがどういう気持ちで、どういう動機で昼間から酒を飲んでいるのか、そんなことは詮索してはならぬ。ごめんなさい。言語化できないこと、たくさんある。
毎年この時期は昼から酒を飲み、公園で転倒し、寒さに震えながら居酒屋でさらに飲み、何かしら不用意な発言などして自己嫌悪に陥るのだが、今年はそれもない。
