○○の話

数少ない未婚友達の友人の話だ。なぜか「まいばすけっと」で買い物をしているときに学生時代の彼女を思い出した。フラフラに疲れていたとある日、たまたま魚肉ソーセージに目がとまった。まいばすけっとで魚肉ソーセージに目をとめるなんて不思議だな…と思ってぼやっとレジに足を運んでいたら、ガッと彼女の残像が目に浮かんだ。学生時代、彼女とさほど交流していなかったのだが、なぜか気になっていて、モサっとしているわりに妙な色気があるところが好きだった。色気があると思っているのも私だけだと確信できるほど、もさっと感のほうが強い、鬱々とした表情の中肉中背の女だ。

 

彼女は10代の頃、漫画みたいに「雷に打たれた」恋をしたという。

 

体育のマラソンをさぼっているときに、たまたま教室で二人になったときに打ち明けられた。何を…と思ったが、たしかに彼女の目はうるうるだったし、どこか一点を見つめながら「私、好きってこんなにすごい感情だって初めて知った」などと言葉をついでおり、思春期の感情のビッグウェーブに気持ちよくライドしている様子が見られた。

 

そんな話を打ち明けられた私といえば、テニス部でサーブを打ち込む瞬間とあさイチ吉野家の牛丼(並)をいただくことが幸せなくらい、色気も何もあったものではない女子高生であった。見た目では彼女とほぼ変わらない、もさっと感選手権上位の女子だ。

 

少しぬげがけをされたような気分でもあり、好奇心から「どんな男なの」と精一杯のイキったコミュニーケーションをとってみたが、裏腹に「しっとりしてるの」などという。

 

当時の私が知っている「しっとり」はシャンプーの「さらさら」ではないほうか、せいぜいスイーツのスポンジの好みくらいで、男性の種別を表現するものではなかった。なんだコイツ、キモチわる…私のキャパはそこで限界を迎えたのだろう。イライラしている自分の手先やつま先の残像のみしか記憶にない。

 

さて、そこから20年後だ。

 

彼女はまだその「しっとり」を追い求めていた。しかも、同じ「しっとり」を。

 

「どう見られたっていいよ。でも、彼の『しっとり』を感じられたら何でもいいの。もう、なんでもいいんだよね。年金とか、SNSとか、自意識とか」

 

どんだけしっとりしてるんだ…彼とやらは…と思った私のツッコミをさておくほど、彼女からは「どうでもいい」オーラが際立っていた。「しっとり」へのこだわりというよりかは「しっとり」へこだわることへのどうでもよさが光っている。

 

これは大変だ、と思った私の尺度はどうだろう。彼女の「どうでもいい」光はどうだろう。

 

「何でもいい」と「しっとり」を見つけられた彼女は、まぶしかった。整形もせず、タレ眉の筋肉に逆らったダサい眉のアートメイクが唯一の加工か。

 

「ねえ、その彼とは、結婚とかそういうのあるの」

 

と聞いた私を見て、彼女は

 

「答えられないところもまたいいの。ねえ、魚肉ソーセージってどう思う?て聞かれてどう答える? それと同じ感じ」

 

と言って去った。